流鏑馬とはどういうもの?その由来や笠懸との違いを知りたい!

流鏑馬(やぶさめ)は、走らせた馬から射手が的に向けて矢を射る伝統の武道であり神事です。

毎年、全国のあちらこちらの神社で、流鏑馬の行事が行われ、多くのファンで賑わっています。

カズコ

私も鎌倉八幡宮の流鏑馬は家族で見物に行ったことがあります。

ここでは、平安時代から始まったとされる流鏑馬について、その由来や流派の違い、笠懸との違いなどについて調べてみました。

流鏑馬とはどういうもの?

流鏑馬とは、日本の伝統的な弓術で、疾走する馬上から矢を射るという神事や儀式のことです。これは、古くは貴族や武士の間で行われた武道で、技術だけでなく心身を鍛える修行でもありました。

流鏑馬の行事では、射手は中世の武士が狩りに出かける際に着用した衣服(狩装束)に身をつつみ、神社の境内や特設の馬場で、一定の距離を走る馬の上から、連続して置かれた3つの的を射抜きます。この行事は、天下泰平や五穀豊穣、万民息災、病気平癒を祈念する意味があります。

流鏑馬の読み方の変遷

なかなか読み方が難しいですが、流鏑馬となった名前の由来は、「矢馳せ馬(やばせめ)」が転じたものといわれています。

古代では、「馬的射(むまゆみいさせ)」「騎射(むまゆみ)」「矢馳せ馬(やはせむま)」と呼ばれていたそうで、やはせむま(矢馳せ馬)⇒やばせめ(矢馳せ馬)⇒やぶさめ(流鏑馬)になったと言われています。

流鏑馬のルール

流鏑馬のルールは、250mの馬場に3ヶ所の的が設けられ、90cm以上で角がなく直径3cm以上の木製鏑矢を使用して疾走する馬上から矢を射ります。

馬場の状態にもよりますが、馬の速度はだいたい20~25秒/250mくらい。

時速36~45kmくらいだそうで、通り過ぎる時に写真を撮ろうとしても、素人ではなかなか撮れません。

カズコ

流鏑馬の由来は?

流鏑馬はどのようにして始まったのか気になりますよね。

流鏑馬は、6世紀中ごろ欽明天皇が世が乱れたのを憂い、現在の大分県において「天下泰平、五穀豊穣」を祈願して、三つの的を馬上から射させられたことが始まりとされています。

流鏑馬の名が文献で最も古く見ることができるのは、今から約900年前の藤原明衡(ふじわらのあきひら)の『新猿楽記(しんさるがくき)』です。

当時の流鏑馬は、朝廷の警護が射手となったもので、宮中や貴族の邸宅での催し物として平安時代に盛んに行なわれていたそうです。

この時代は、貴族社会では儀式や祭事の一環として、また武技としての訓練や娯楽のため弓術が重んじられました

鎌倉時代に入ると1187年に、源頼朝が鎌倉八幡宮(鶴岡八幡宮)に、国家の平安と繁栄を祈って流鏑馬を奉納しました。これをきっかけに流鏑馬が武士の武技として、また神への奉納行為として定着し、武士道の精神を象徴する行事として位置付けられるようになりました。

この伝統は、その後の時代にも受け継がれ、現代に至るまで多くの神社で行われる伝統行事として続いています。

流派の違い

流鏑馬には、大きく2つの流派があります。

小笠原流

仕えた人

創設者は小笠原長清で、彼の家系は代々、武士たちに弓術や礼儀を教えてきました。

小笠原家は二つの大きな分家に分かれ、一方は信州松本の城主に、もう一方は伊豆の国の守護職になりました。どちらの家系も鎌倉幕府後醍醐天皇に仕え、小笠原流の礼法を守り続けました。

徳川時代には、小笠原家は幕府の弓馬術礼法師範として活躍し、流鏑馬などの儀式を行いました。

明治時代に入ると、小笠原家は流鏑馬を含む日本の伝統文化を広めるために努力し、礼法の普及にも貢献しました。

服装

射手は、立烏帽子(たてえぼし)や綾藺笠(あやいがさ)を頭にかぶり、鎧をまとった直垂の上に射小手を装着し、行験や太刀を帯びて、箙(えびら)を背負って弓と矢を携えます。

特徴

小笠原流の流鏑馬は、ただ的を射るだけでなく、その所作一つ一つに礼法を重んじ精神性を大切にすることが特徴です。

流鏑馬を含む武道の訓練を通じて、自己を磨き、道徳的な人間を目指すことを教えています。

稽古の基本は、立つ・坐る・歩く・お辞儀をする・物を持つ・廻るの六つ。

小笠原流の流鏑馬は、日本の武道文化の中でも独特な位置を占め、その伝統的な技術や精神性は、現代においても多くの人々に受け継がれ、尊重されています。

武田流

仕えた人

武田流は平安時代から始まり、清和天皇の子孫を通じて武田家と小笠原家に伝わりました

特に、若狭の武田信直から竹原惟成に伝えられた技術は、竹原家によって長年守られてきました。竹原家はこの流派を継承し、昭和36年に竹原正文が熊本県の無形文化財に認定され、後に竹原陽次郎が流派を保存するための組織を立ち上げました。

服装

射手は、鬼面綾檜笠(きめんあやひがさ)を頭にかぶり、身には鎧を着用し、その上から射籠手(いごて)を装着します。

腰には行縢(むかばき)と太刀をはき、前差しを斜めに帯びて、背中には箙(えびら)を背負い弓と矢を携えます。

手首には弦巻(つるまき)を巻き付けます。

特徴

武田流の流鏑馬は特徴として、相手への尊敬、心配り、物の丁寧な扱いを美しい形で表すことにあります。

この礼法は、竹原惟成が細川忠利から「軍礼故実作法」を継承し、以後、竹原家で代々受け継がれてきました。

10代目竹原惟路の娘、千喜は明治から昭和初期にかけて、尚絅高等女学校で作法教師としてこの礼法を伝え、一般の子供たちにも広めました。さまざまな社会情勢の変化で一時途絶えたものの、現在も大切に教えられています。

流鏑馬と笠懸の違い

流鏑馬と笠懸は、日本の伝統的な弓術の形式でありながら、実施方法や目的において異なる点があります。

流鏑馬(やぶさめ)

流鏑馬は、馬上から走りながら矢を射る弓術であり、神事や祭事の一環として行われることが多いです。

射手は全速力で馬を走らせ、事前に設定された的を射抜きます。流鏑馬は、古来より武士の武道訓練として、また国家の平安や五穀豊穣を祈願するための儀式として行われてきました。

流鏑馬の実施には、一定の距離を走行する馬場が必要であり、射手は伝統的な装束を身にまとい、厳粛な雰囲気の中で技術を競います。

笠懸(かさがけ)

一方笠懸は、笠を的として吊るし、それを馬上から矢で射抜く競技です。

笠懸もまた、武士の武道訓練の一形態として発展しましたが、こちらはより技術的な精度や矢の正確さを競う側面が強いです。

笠懸は流鏑馬ほど広範に行われる儀式ではありませんが、特定の地域や行事で見ることができる伝統的な競技です。

笠懸においても、射手は伝統的な装束を身にまといますが、流鏑馬に比べて実施する場所や形式には多少の柔軟性があります。

まとめ

日本の伝統文化として、平安時代から武士の間で発展してきた流鏑馬。

流派は大きく分けて武田流と小笠原流。服装の違いや仕えた人の違いもあります。

また笠懸は流鏑馬と同じように馬に乗って的を射る武道ですが、的が笠であったり、流鏑馬より少し技術面に重きを置いているという違いがあります。

現在においても、両方とも人々を引きつけ、大切に伝承されています。

こういうものは、未来永劫、続いて欲しいですね。

ぜひお近くで流鏑馬や笠懸を実際に見てみてくださいね。